あなたの「想像を超える」エピソード 受賞作品公開

優秀賞
千葉県 堀里美
「確かにそれと比べれば」

 高校三年生のときの担任は、様々に予想外の人だった。
 彼女は私の母親よりもひとまわり年上で、小柄で痩せ型、化粧というものを全くしない。全体の印象は、大人しそう、真面目そう、地味、といったものだ。
 しかし大人しそうな印象とは違い、彼女は中々の行動派だった。子供は五人居て、孫も居て、教師になる前は看護婦だったという。大学は心理学部で、教員免許は古典と日本史で持っている。看護学校には三十過ぎて通った。
 高校時代、「どうして看護婦さんになろうと思ったんですか」と訊ねたことがある。
 先生から返ってきた答えは「盲腸で入院したとき、看護婦さんがとっても素敵だったからよ」という中学生女子のようなものだった。
 この先生とは波長があって、高校卒業後も頻繁に連絡を取った。

 二十二歳のときに、人生最大の失恋をした。三年半片想いしていた相手に告白し、ひと月だけ付き合って貰えたが、すぐに振られた。
 その時期、就職活動がうまく行かず、ズルズルとアルバイト生活を続けていた。お金の心配も有って、昼夜で二つ掛け持ちだった。ひとつはバイト先の先輩とうまく行かず、もうひとつは深夜までの時間帯で、生活リズムが乱れていた。
 私は卒業しても引越しをせず、学生時代のアパートにそのまま住み続けていた。就職が決まった友人たちは、次々地元や就職先の近くへと住居を移した。周囲には気軽に悩みを相談したり、遊びに行ったり出来る友人は一人もいなくなっていた。
 仕事が終わった夜中に、レジ袋一杯のお菓子を食べた。どうしても止めることが出来なかった。
 ある日、夜中にお菓子を食べながら、もう目を覚ましたくないな、と思った。市販の薬を、二箱分、お酒と一緒にざらざら飲んだ。死にたい、と思ったわけではない。単に、目を覚ましたくないと思った。
 一日半後に目を覚ました。意識は有るけれど体が動かなかった。べろべろに酔っ払った翌日の、酷い二日酔いと症状はよく似ていた。壁伝いに立ち上がり大変な時間を掛けて水を飲み、布団へと戻った。
 枕元では携帯電話が、着信ありの点滅をしていた。アルバイトを無断で休んだからだ。アルバイト先二つに、謝罪の電話をしたあと、先生に電話を掛けた。
 少し体調を崩した、今寝込んでいる、疲れているのだ、ということを、控えめに伝えた。
 先生は「動けるようになったらうちにいらっしゃい」と言った。
 先生は、教員になる前にご主人をなくされ、お子さん五人とも独り立ちしていたので、広い家に一人で住んでいた。
 二日後、私は先生に会う為に帰省した。
 会うなり、泣いてしまった。失恋したこと、就職活動がうまくいかないこと、アルバイトが辛いこと、摂食障害のことなど、話すつもりのなかったことまで次々次々口からあふれ出た。
 先生は、フムフムと相槌を打ち、私の長い話を終わるまでずっと聞いてくれた。
 私の話に対して、意見も批判もお説教も慰めの言葉もなく、そっとお茶とお菓子と、食事を出して、あとは「とりあえずしっかり寝なさい」と言った。その日の夜は、先生のお宅に泊まった。
 翌朝、朝食のあと、先生は「少し歩きましょう」と言った。
 私の地元は大変な田舎だ。住宅地のほかは田んぼと畑と野山、時折コンビニと大型スーパーが点在するだけだ。
 「少し」と言われたが、結構歩いた。畑の間を延々歩く。
 三十分ほどして、ようやく先生が足を止めた。
 小高い丘のような場所の手前で、辺りには相変わらず畑と民家しかない。
 「古墳跡です」と先生は言った。
 そしてその古墳の説明を始めた。
 歩き疲れて、正直余り頭には入らなかった。
 ただの小振りな丘にしか見えないな、と思っていた。
 「だからね」と先生は最後に言った。「あなたの、あなただけじゃなくて、大抵の人間の悩みは、古墳に比べれば、たいしたことない」
 古墳と比べるの?
 驚きの余り返事が出来ないでいる私に、先生は「ね」と、力強く念を押した。
 勢いに押されて、とりあえず「はい」と答えた。
 確かに古墳と比べれば、私の悩みはたいしたことない。熟成期間的にも全然負けだ。
 先生は私の返事に頷くと、来た道を引き返し始めた。どうやら古墳がメインだったらしい。
 その日の昼には、先生にお礼を言って別れた。
 アパートに戻って、古墳のことを考えた。
 おかしくなって、一人で笑った。確かに古墳と比べるとたいしたことない。
 そして私は「生きるのが面倒」と「私は駄目な人間」という気持ちが、どこか他所に移って行ったことに気がついた。
 私はその週にアルバイトを辞めることを決め、翌月には引っ越すことにした。
 私は引越し、少し時間が掛かったけど仕事を探し、これまた少し時間が掛かったけれど、恋人が出来た。
 嫌なこと辛いこと悲しいことがあると、途中で必ず古墳について考えた。
 まあ、古墳に比べればどれもたいしたことはなかった。